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*画像はベルマーレ関連って事で

重松良典

生年月日: 1930年4月2日 (87歳)*2017.05.02現在

1945年8月6日8時15分、広島市への原子爆弾投下により被爆した。

◆現役時代のプレースタイル

現役時代はFWで、後方からのロングボールを半身で胸トラップしてゴールへ向かう、当時としては特別な技術を持った選手であった。

1949年慶應義塾大学に進学。同大学ソッカー部で、LW(左ウイング)の名選手として鳴らし、天皇杯全日本サッカー選手権大会は1952年大会の慶應制覇の立役者となった。コーナーキックにカーブをかけて、直接ゴールに入れるのがうまかった。

1954年大学を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社した。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)初期の黄金期の原動力となった。

1958年には、第3回アジア競技大会(東京)で全日本(日本代表)に初選出され、5月28日対香港戦にて初キャップを果たす(出場は1試合のみ)

現役引退後、東洋工業の社業に専念した。


◆日本リーグ設立運営

その後東洋工業東京支社の経理課にいた経験を買われ、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)入りし、日本サッカーリーグ(JSL)創設の設立準備委員会の経理の担当者となり西村章一・長沼健・岡野俊一郎らと陣頭指揮を執り設立を実現させた。中心となったのはこの4名である。その後も2代目JSL総務主事(現在で言えばJリーグチェアマン)として初期JSLの運営にあたったり、同時に日本蹴球協会理事として協会の仕事もこなすなど多方面に活躍していた。

また、協会在籍時の1968年、藤和不動産サッカー部(のちのフジタSC/ベルマーレ平塚、現・湘南ベルマーレ)の設立に黒木芳彦や石井義信らと共に携わっている。

1972年、蹴球協会を法人化、日本サッカー界を学生サッカー中心からJSLおよび協会主導となるように画策した。これが1976年の日本蹴球協会の政変へと繋がった。


◆広島カープ「赤ヘル旋風」の陰の仕掛人

1974年、東洋工業にもどり総務課長を務めたあと、西野襄の後を受け広島東洋カープ球団代表に就任した。翌1975年重松と根本陸夫元カープ監督(当時解説者)の2人は共にジョー・ルーツコーチがチームを劇的に変える人材として認識し、根本が次のカープ監督として松田耕平オーナーに推薦したことから、日本球界では初のメジャーリーグ出身外国人監督となるルーツ監督就任が決定した。

重松がルーツを監督にしたかった理由として、負けても悔しがらない選手の顔が我慢ならず闘争心を持ち合わせるルーツが変化をもたらせることを期待したことと、「日本人にはコンプレックスがあって外国人の言う事はよく聞いた」ため。しかし賛同する者は誰一人なく、監督を「城主」コーチを「城代」に例え「城代ならいいが、城主に外国人というのは納得がいかない」と反撥を受けた。

現役メジャーリーガーを獲得、スタッフも入れ替え一新させた。さらにルーツはチームカラーを紺色から燃える闘志を表す赤色への変更を要望した。重松はほぼすべて要望に答え、「赤ヘル旋風」の陰の仕掛人とも言われている。

チーム改革をした重松だが1975年シーズン当初は、「セ・リーグは巨人を中心に盛り上げていかなければいけないんだよ」とサッカー時代の知人記者であった牛木素吉郎に吐露した。

投打に能力の高い選手が揃い下地の出来ていたチームはルーツにより大きく生まれ変わったものの、当のルーツはボール判定からの審判への暴行に端を発し辞任している。ルーツ退団後、現場スタッフの意見を取り入れ松田オーナーに古葉竹識コーチを次の監督に推薦した。古葉監督のもと、カープは悲願のセ・リーグ初優勝を果たす。また、球団が抱えていた創設以来の累積赤字を一挙に解消した。その後も平山智がスカウトしたジム・ライトルやヘンリー・ギャレット獲得、江夏豊らのトレードを敢行し戦力を整え、在任中3度のリーグ優勝と2度の日本一(1975年リーグ優勝・1979年日本一・1980年日本一)、カープの黄金時代をもたらした。ちなみに、それから2016年現在までカープは41期連続で黒字経営を続けている。

1981年末に辞任。


◆サッカー界に復帰

同1981年から、フジタ工業(現・フジタ)に転じる。日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグの設立にかかわっている。

1997年6月、フジタの子会社にあたるJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任した。同チームはこの時期黄金期を迎え、1998年のフランスW杯には小島伸幸・洪明甫・中田英寿・呂比須ワグナーと日韓合わせて4人の代表選手を輩出、Jリーグ上位に常にいるチームであった。1998年中田のACペルージャ移籍にも尽力する。ただこの間、親会社であったフジタの経営不振がチームに影響を及ぼしていた。

1998年末、フジタが経営の建て直しを図るためベルマーレへの出資を減らしたことから、運営費を減らすため主力選手のリストラを決行する。1999年J1で年間成績最下位となりJ2に降格、同年フジタも私的整理(任意的倒産処理)を行ったことから一時はチーム存続の危機が囁かれた。この間、重松はチーム存続のために動いている。1999年末、重松は新会社に籍を移らず退任する。

2000年Jリーグ参与に就任、その他日本サッカー協会参与に就任したが、任期満了及び定年により2010年現在双方ともに退任している。2002年のワールドカップ開催にも尽力した。

2011年現在広島県サッカー協会顧問。現在は、地元広島に在住。


重松良典wikiより(一部編集)

◆フリューゲルスとは違いベルマーレは何故生き残れたのか?

・フリューゲルスの場合

1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形で横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併が突然発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振(後に経営破綻)のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社の全日空も赤字に陥っており、単独でクラブを支える余力がなかったことが原因であった。その為、横浜マリノスの親会社日産自動車との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収合併されることになり、クラブは事実上消滅することになった。そして、両クラブの合併はその日のJリーグ理事会で正式に承認された。
フリューゲルスwikiより
・ベルマーレの場合

 1年間の時間をかけ、負債を残さずに新会社への「軟着陸」を果たしたフジタ工業のJリーグからの撤退ぶりは、希有の存在だった。

 「ベルマーレは未来永劫(えいごう)に継続するんだ」

 銀行の厳しい管理下に置かれたフジタ工業が、もう資金面でベルマーレを支えられない状態になった昨年、クラブの経営責任者である社長の重松良典(69)は、その信念のもとに「生き残る」ための改革を始めた。

 「人」「モノ」「カネ」のすべての面で負担にならない形にしておかなければ、誰も引き継いではくれない。何よりも必要なのは、これまでの万年赤字体質を改めることだった。

 入場料収入を柱とした収入源は限られている。収支のバランスを取るためには、徹底して支出を抑えなければならない。昨年のレギュラー選手を全員放出し、若手選手を中心としたチームをつくった。スタッフ数を削り、試合運営経費も最大限切りつめてボランティアに頼った。

 そうしたなかで、選手たちには、「あなたにとってサッカーとは何かを考えて取り組んでほしい」と要求した。カネを得る手段なのか。名声か。それとも、まったく別の何かなのか。

 スター選手はおらず、経験の浅い選手ばかりで、負けが続くかもしれない。「そんなチームを見に来てくれるファンに何を返すのか。それを考え抜いて、プレーに反映させてほしい」。

 同時に、クラブを引き継ごうという地元の人たちには、「地域にとってベルマーレとは何かをよく考えてほしい」と頼んだ。

 負けても負けてもくさらず、懸命に勝利を追ったベルマーレ。その姿はやがて地域の人びとに支持され、「地元にJリーグクラブをもつこと」の意味の理解も深まり、広まっていった。

http://www.soccertalk.jp/content/1999/12/no292.html
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2016.12.20
湘南、18年ぶりにフジタとスポンサー契約…“再タッグ”を実現させた愛情と熱意とは

「あの一件(負債を残さなかったこと)がなければ、恐らく今の湘南は存在していません。撤退以降は直接的な関係がないまま今シーズンを迎えていましたが、精神的な部分ではフジタさんとつながっていたと私は思っています。今回のお話を進めていくに当たって、フジタさんの社内では『一度撤退した我々が戻っていいのか。ファンやサポーターの方々に嫌な思いをさせるのではないか』と懸念する声が上がったのも事実ですが、私からは『そういうことは一切ありません。逆にウェルカムです』と伝えました。一度でもお付き合いした方々との縁を大切にするのは当たり前のことですけれども、湘南はその縁をずっと持ち続けていきたいと考えているクラブなので。企業なので業績が良い時もあれば悪い時もあるし、だからこそ良くなった時に戻って来られる絵を描ければ全員が一番幸せなのではないかと。実際、今シーズンは数年ぶりに戻って来た看板スポンサーの企業もありますので」

 9月以降の交渉はとんとん拍子で進み、今月中旬になって最終的に合意に達した。金額や契約年数などは非公表とされたが、水谷社長は「精神的にはずっと(お付き合いを)、という感じといいますか、フジタさんからも『再び戻るのであれば、ずっと続けなければ意味がない』という思いもいただいています」と、相思相愛の関係を築けたことに相好を崩す。


https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20161220/529779.html
ベルマーレと湘南のこと調べて知った重松良典さん。
すごい経歴の凄い人だ・・・裏方にも(裏も表もない表裏一体だ!)色んな人が関わっているのだなと知りました。
組織体系とはしては知ってましたが、1人間として知るとまた違いますね。
湘南なんたらどうでもよくなったわ。
戦国武将だったら凄く能力値高そう。

フリューゲルスも色々苦心していたと思います。
色んな人々が会社を構築し、社会全体を構成している。
全ての物事に感謝です。

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